善の研究:第四編 宗教:第五章 知と愛
善の研究:第四編 宗教:第五章 知と愛
この一篇はこの書の続として書いたものではない。しかしこの書の思想と連絡を有すると思うからここに附加することとした。
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想もうそう臆断おくだん即ちいわゆる主観的の者を消磨し尽して物の真相に一致した時、即ち純客観に一致した時始めてこれを能よくするのである。たとえば明月の薄黒い処のあるは兎が餅を搗ついているのであるとか、地震は地下の大鯰なまずが動くのであるとかいうのは主観的妄想である。然るに我々は天文、地質の学において全然かかる主観的妄想を棄て、純客観的なる自然法則に従うて考究し、ここに始めてこれらの現象の真相に到達することができるのである。我々は客観的になればなるだけ益々能く物の真相を知ることができる。数千年来の学問進歩の歴史は我々人間が主観を棄て客観に従い来った道筋を示した者である。次に何故に愛は主客合一であるかを話して見よう。我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂いいである。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起るのである。親が子となるが故に子の一利一害は己おのれの利害のように感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣きんじゅう草木にまでも及んだのである。 斯かくの如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其者そのものと一致するが故に、能く数理を明あきらかにすることができるのである。美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没することに由りて甫はじめて自然の真を看破し得るのである。また一方より考えて見れば、我はわが友を知るが故にこれを愛するのである。境遇を同じうし思想趣味を同じうし、相理会するいよいよ深ければ深い程同情は益々濃こまやかになる訳である。しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。数理の妙に心を奪われ寝食を忘れてこれに耽ける時、我は数理を知ると共にこれを愛しつつあるのである。また我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直ただちに自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。愛は他人の感情を直覚するのである。池に陥らんとする幼児を救うに当りては、可愛いという考すら起る余裕もない。
普通には愛は感情であって純粋なる知識と区別されねばならぬという。しかし事実上の精神現象には純知識という者もなければ純感情という者もない。斯の如き区別は心理学者が学問上便宜の為に作った抽象的概念にすぎない。学理の研究が一種の感情に由って維持せられねばならぬように、他を愛するには一種の直覚が基とならねばならぬ。余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。両者の差は精神作用その者にあるのではなく、むしろ対象の種類に由るといってよろしい。而しかして古来幾多の学者哲人のいったように、宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であって実在その者を捕捉することはできぬ。我々はただ愛に由りてのみこれに達することができる。愛は知の極点である。
以上少しく知と愛との関係を述べた所で、今これを宗教上の事に当てはめて考えて見よう。主観は自力である、客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力をすてて他力の信心に入る謂いいである。人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いているのである。学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教という者はこの作用の極致である。学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。「父よ、もしみこころにかなはばこの杯を我より離したまへ、されど我が意のままをなすにあらず、唯みこころのままになしたまへ」とか、「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」とかいう語が宗教の極意である。而してこの絶対無限の仏もしくは神を知るのはただこれを愛するに因りて能くするのである、これを愛するが即ちこれを知るである。印度インドのヴェーダ教や新プラトー学派や仏教の聖道門しょうどうもんはこれを知るといい、基督教や浄土宗はこれを愛すといいまたはこれに依るという。各自その特色はないではないがその本質においては同一である。神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのはただ愛または信の直覚に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずという者は、最も能く神を知りおる者である。